袷と単衣

昨日は宝塚ソリオホールと言うところでの公演でした。
演目は「敦盛」でしたが、甲冑を表す装束(衣装)は単衣の薄い長絹を着ます。対して源氏の武将は袷(あわせ)の法被を着ます。
皆様も六月一日の衣替えで『制服』が冬服から夏服に替わりますが、我々も袷の着物から単衣の着物に替わります。でも最近は単衣ではなくすぐに絽や麻に替えられる方がいますが本来は単衣の着物です・・・この暑さでは仕方ないかもしれませんが、私は6月の間は襟だけ「絽」にして、7月に入り紋付も「絽」にしました。そのかわり単衣の紋付は汗だらけで、ただのやせ我慢です・・・
能装束には衣替えはありません。前述の役柄により衣装を替えてあります。単衣の「絽」には「暑さ」ではなく、薄い「厚さ」により「優美」や「華奢」「儚さ」を表します。対する源氏は袷の「厚さ」で「武骨」や「力強さ」を表していると言えます。着付けも平家方は縫箔(生地に刺繍)に大口(無地または華奢な模様入り)、源氏方は厚板(織物)に半切(金襴の大きく荒々しい模様)とすべてが逆にしてあります。(写真は平家方、源氏方はフォルダにないので近々アップします)
能を見るときこういう楽しみも出来るでしょうネ。 
平敦盛は寿永三年二月七日、十六歳の若さで兵庫県須磨の一ノ谷の合戦で命を落としました。敦盛は海へ退却した平家一軍に遅れてしまい、波打ち際で源氏の熊谷直実に討ち取られてしまいます。直実は息子と同じ年代の平家の公達に一瞬迷いますが、首を討ち取ります。
能「敦盛」はこの後日談です。熊谷直実の後悔から出家して蓮生法師となり、供養と昔を思い出すために一ノ谷を訪れ、美しい笛の音を耳にします。すると草刈りの若い男達が現れます。不審に思い尋ねると笛の名を様々に語り、一人だけ残り、実は自分は敦盛の所縁の者とほのめかして消えていきます。この「私が敦盛本人である」と名乗ってもいいものを「所縁の者」というのが心憎く、平家のシャイでセレブなところで私は好きです。その夜蓮生が弔っていると、敦盛が現れ、弔いへの感謝と、平家の栄華と衰退を語ります。その敦盛の最後となる前夜一ノ谷にては宴が催され、経盛親子は今様を謡い、敦盛も笛を奏でていました。その笛の音は源氏軍も聞いていたのでした。戦場に響く優美な遊興に源氏軍は何を感じたのでしょうか?通常『修羅物』は「翔」と呼ばれる修羅道の苦しみや心身の不安定を表すパフォーマンスを見せますが、敦盛は優美な「舞」で宴を表します。その「舞い」の途中で戦に突入し、そのまま組み伏せられ討ち取られてしまいます。蓮生に刀を振り上げて仇を討とうとしますが、弔ってくれる因果の巡り合わせに感謝して消えていきます。
この弔ってくれ自身が成仏することですべてを赦すというのは、現代的には少しあっけなさ過ぎますが、仏教思想の中では重要なファクターであるといえます。
16歳の彼がどうして戦をしなければならなかったのか・・・
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